初めて読んだのは13年前です
当時も今回も読んでよかったと思いました
今回は、『非営利組織の経営』を読んだ後に再読したくなりました
印象に残った文(一部)
一部とはいえ、まあまあの量です
「空気」もまた、その正体を知らないまま、「読み方」だけを習得しようとしても意味はないと思うのです。(p.3)
この本は、「空気」と「世間」の正体をなんとか突き止め、「空気」と「世間」に振り回されない方法を探るための本です。(p.5)
あなたは「空気を読め!」と言われたことがありますか。または、「空気を読め!」と言われないように、気を配り、神経を使いながら話したことはありますか。(p.15)
ひょっとしたら、大物司会者はいないのに、一生懸命、その場の「空気」を読もうと思っていたんじゃないですか?(p.16)
いえ、そもそも、そんな不安定な「空気」を読むこと自体が不毛なことだと言えるのです。だって、読んだ次の瞬間に変わる可能性が高い「空気」なのです。(p.18)
その人物は、紳助さんやダウンタウンさんに匹敵するほどの有能な大物司会者なのか、ということです。(p.20)
あなたの想像力は徹底的にあなたを苦しめます。それは他人の想像力よりも徹底的です。あなたは自分自身がどういうことに悩み、傷つき、苦しんでいるかを知っています。(p.29)
おばさんは、自分に関係のある世界では、親切でおせっかいな人のはずです。そして、自分とは関係のない世界に対しては、存在していないかのように関心がないのです。この、自分に関係のある世界のことを「世間」と呼ぶのだと思います。そして、自分に関係のない世界のことを、「社会」と呼ぶのです。(p.38)
明治十年(一八七七)頃にsocietyの訳語として社会という言葉がつくられた。そして同十七年頃にindividualの訳語として個人という言葉が定着した。(…)ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。(p.40)
『「世間」とは何か』 阿部謹也/講談社現代新書
そして、阿部さんは、建前としての「社会」と本音としての「世間」が日本に生まれたとします。(…)日本の「個人」は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本には存在しないのです。そして、もちろん、独立した「個人」が構成する「社会」なんてのも、日本にはないんだと言うのです。(p.42)
あらためて確認しておきますが、だから、欧米人と日本人のどっちが正しいか、なんてことを僕は言っているのではありません。私たち日本人は、望むと望まざるとにかかわらず、こういう社会に生きている。だから、まず、この社会の特質を明確にしよう。(p.46)
もっと翻訳不可能なのは、「先輩」「後輩」です。(p.57)
その時、「あ、いえ、これが初めての電話で、取引が成立するかどうかまだ分からないので、まだ、お世話していません」とは誰も言いません。(…)演劇の演出家をしている僕は、言葉に対して誠実であろうといつも思っています。(p.63)
キリスト教というシステムがなければ、西洋もまた「世間」が続いていただろうという大胆な研究です。(…)「世間」を信じてしまう日本人は、別に劣っているわけでも間違っているわけでもなく、人間は、強力な一神教がなければ、自然にそう思うんだということを明らかにしたのです。(p.85)
「世間」が、明治維新以降、表舞台から去っても、決してなくならなかったには、間違いなく理由があります。それは、「世間」がかろうじて、人間を支えてくれたからです。(p.91)
「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(p.101)
『「空気」の研究』 山本七平/文春文庫
なぜなら、日本人の自我を支えているのは、自分が所属している「世間」だからです。(p.112)
「世間」に生きている日本人は、外国でのパーティーに関して書いたように、自分の「世間」以外の人、つまり「社会」に生きる人に話しかける言葉をなかなか持っていないのです。(p.116)
欧米人は、「社会」の属する人と自然に付き合う社交術が身についているのです。もちろん、それは、「世間」が約1000年前になくなり、すべて、「社会」の人になったから、自然に獲得した技術なのです。(p.120)
「空気」の支配は、議論を拒否するのです。(p.134)
あなたも知っているように、日本人の好みが多様化しただけです。つまりは、「同質であること」を維持できなくなってきたのです。(p.147)
「世間」はまずは経済的なセイフティー・ネットとして機能していました。(…)農作業は集団で行わないと成立しないものです。(…)その意味で、「世間」は西洋の一神教に匹敵する強力な神でした。(p.149)
「世間」のルールからはみ出ることの快適さを、日本人は知り始めたのです。(p.163)
日本では、「普通」という言い方がまだ成立しています。(…)けれど、これもまた翻訳不可能な言葉なのです。アメリカにもヨーロッパにも、(…)あるのは格差だけなので、「普通」と答えられる真ん中の平均がないのです。中流や平均で物事を考える、という発想がないのです。(p.174)
といって、僕は、この宗教的情熱を責めているのではありません。激烈な競争社会で、格差がお定して、貧困が貧困を生むようになった社会で、宗教がなければ、人は人であり続けられないとも思うのです。(p.178)
これから、日本もアメリカ並の格差社会になるのだとしたら、傷つき、絶望し、苦悩する人を、いったい何が救うのだろうか?ということなのです。(p.179)
日本でアメリカ式の新自由主義を導入しようとする経済学者に対して、僕は、「キリスト教が支えてくれないのに、どうしてそんなことができるんだ?」と呆れていました。(…)アメリカ人は「神に強烈に支えられた個人主義者」でしかないのです。(…)「自己責任」なんて言葉を、何も支えるものがない日本で、政治的意図だけで簡単に言い出す政治家や、それに乗ったマスコミに対して、本気なんだろうかと僕は思っていました。(p.181)
そして、「共同体の匂い」だけでは自分を支えきれない、激しい不安な日本人たちは「世間」に対して、福音派の人たちとまったく同じ構図のアプローチを取ります。(p.187)
人は不安になった時、原理原則に戻るのです。不安になればなるほどです。(p.190)
伝統的な「世間」は、「多様性の容認」ではなく、「同一性の強制」を激しく求めるのです。(p.190)
できることなら、同一性を信じるより、多様性を喜ぶことで、なんとかこのやっかいで、苦しい世界を生き延びたいと思うのです。(p.191)
あなたは何で自分を支えようとしていますか?(p.203)
ほんの少し「個人」がしっかりした人は、同じことを言うことに意味がないと思って、幻の「空気」がそこにあっても、自分の言いたいことを言います。これぐらいの「個人」の強さは、必要だと思っています。それは、その方が快適だからです。(p.214)
「世間」に向かって書くとは、自分の思ったことを思ったように書くだけのことです。(…)「社会」に向かって書くとは、自分がなぜそう思ったかを、一定の情報を相手に与えながら、つまりは必要な情報を交えて、自分の気持ちを書く、ということです。(p.220)
日本語は、(…)相手との関係が決まらないと発言できない言語です。日本語は、「世間」と共に生きている言語なのです。(p.226)
むしろ問題は、日本語がコミュニケーションのツールとして、過剰な性能を持っている点にある。(…)だが、この日本語が本来の性能を発揮するには前提がある。それは価値観や、常識といった情報が、話し手と聞き手との間で共有されているという前提だ。(p.228)
『「関係の空気」「場の空気」』 冷泉彰彦/講談社現代新書
この「です、ます」という標準スタイルを通じて、会話に参加している人間同士の「対等性」や「適切な距離」を置く、つまり公共性というものを実現することができれば、日本社会の閉塞感も和らぐのではないだろうか。
『「関係の空気」「場の空気」』 冷泉彰彦/講談社現代新書
求められるのは、「相手を思いやる能力」ではなく、「相手とちゃんと交渉できる能力」なのです。(p.241)
阿部謹也さんは、日本人は「世間」と「社会」のダブルスタンダードに生きていると書きました。(…)けれど、積極的にダブルスタンダードを活用してもいいんじゃないかと僕は思うのです。(…)それは、「複数の『共同体』にゆるやかに所属すること」ということです。(p.242~243)
インターネットやさまざまな情報から、あなたが本当に楽しめて、わくわくするような「共同体」を見つけ出しましょう。それは絵やテニスなどの趣味のサークルかもしれませんし、出会い系サイトのまじめな交際かもしれませんし、常連となる飲み屋を見つけることかもしれません。放課後、あなたを救ってくれる集団かもしれません。遊び仲間かもしれません。(p.245)
読んだ感想
余計な言葉がないから、引用文がものすごく多くなった。
省略するのが難しい。
このことからも、鴻上さんが”言葉を大切にしている“ということがよくわかる。
初めて読んだのは13年前。
この本を読んですっきりしたことに、かなり救われてきたことを改めて感じた。
13年経って、今ますます「世間」としての居場所が求められているように思う。
それは、今しようとしていることと重なる。
現在思っていることとまるっきり同じことが書いてあるから、おそらく表面的には忘れていたのだろうけど、自分の中に流れ続けていたのだと気づいた。
だからこそ、この13年の間に、空気に従わざるを得ない環境から立ち去ることができたのかもしれない。
この本に出会わず、「空気」に対するモヤモヤをクリアにできていなかったら、もしかしたらいまだに苦しみながら学校に行っていたのかもしれないと思うと、少しこわい気もする。
このような考え方を、落としどころとして持っていたことは本当によかった。
自分が少し強い「個人」として、自分の生き方ができているからそう思えるのだと思う。
この本自体が支えとなっていた。
現在、6年国語の教科書(光村図書)に、鴻上さんの文章が教材として載っている。
その文章で救われる子どももいるのではと思っている。
(2023.4)